
スタニスラフスキー・システムは、同化を目指す。
ブレヒトの異化は、その同化が不可能であるところから生まれた。例えば、前大戦中、ユダヤ人がドイツ人への同化を目指して演じることは不可能であった。(現在の世界でも、その状況はいたるところに見られる)
それは、叙事的演劇への道を切り開くことになる。ストーリーではなく、状況の提示。ストーリーは拒否され、たえず中断される。「カタルシスへ」という単純な道筋を拒否する。中断によって生まれるその間隙は、たえず思考することを促す。
同時期、スタニスラフスキーの一番弟子メイエルホリドも、日本の古典劇、能や歌舞伎を参考にしながら「ビオメハニカ」というメソッドを開拓していた。これもまた中断である。
そして、メイエルホリドの弟子にあたる映画監督のエイゼンシュタインもまた、モンタージュという手法を生みだす。まさに中断である。
2001年の9.11事件以降、ショック、思考停止、そして麻痺状態という世界の状況のなかで、単純化されたカタルシスのドラマツルギーだけが世界を支配しようとしている。それは、他の思考の道を閉ざすファシズムの種を内包している。「エンターテイメント」と称しながら。主役は、めくるめく暴力的なスピードと排他性の象徴「家族」となる。
すでに思考する人間を葬り去ろうとする時代は訪れているのかもしれない。皮肉にも、そうなったとき演劇の有効性が最も発揮される。故に、過去の独裁者は演劇人をまず抹殺したのではあったが。
posted by NIHEI at 14:01|
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