2007年07月23日

#0022

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「だが、やがてこの人は姿を消した。まったくそのとおりで、姿を消し、それですべてだった。まるで彼なんか存在していなかったかのように。そして、そのようにして何十年かが過ぎた。人々はメイエルホリドについて黙っていたが、それは恐ろしい、死の沈黙だった。わたしはひじょうに教養のある若い人々に会うことがあるが、彼らは一度として、メイエルホリドについてはなにも聞いたことがなかった。彼は、小さいインキのしみが大きなインキ消しで消されてしまうように、完全に消されてしまった」
ドミトリー・ショスタコーヴィチ『証言』
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2006年11月20日

#0021

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ブレヒトは、ナチスに追いつめられついに自殺の道を選んだベンヤミンにむけてこう書いている。
「こうして 未来は暗闇のなかにあり、善の力は
まだ弱い。きみが見たのはその総体だった。
苦悩する肉体をきみが断ちきったとき」
ベルトルト・ブレヒト 『亡命者W・Bの自殺によせて』
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2006年11月19日

#0020

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「叙事的演劇は、映画フィルムの映像のように、ワンショットずつ進行する。その基本形式は、互いに判然と異なるシチュエーションとシチュエーションとの衝突による、ショックという形式である。ソングや舞台の光景を説明する字幕や、演技者の身ぶりの慣例が、ひとつのシチュエーションを、他のシチュエーションからきわだたせる。その結果として、公衆のイリュージョンをどちらかといえばそこなうような、インターヴァルがいたるところに生まれる。こういったインターヴァルが置かれるのは、公衆の批判的態度、公衆の思考を確保するためだ(同じようにフランスの古典舞台は、演技空間のなかに貴人の座席をもうけていた。つまり貴人たちは、幕のあがった舞台のうえに腰をすえて、見物したのである)」
ヴァルター・ベンヤミン 『プロレタリアートが禁句とされた国』
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2006年11月17日

#0019

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スタニスラフスキー・システムは、同化を目指す。
ブレヒトの異化は、その同化が不可能であるところから生まれた。例えば、前大戦中、ユダヤ人がドイツ人への同化を目指して演じることは不可能であった。(現在の世界でも、その状況はいたるところに見られる)
それは、叙事的演劇への道を切り開くことになる。ストーリーではなく、状況の提示。ストーリーは拒否され、たえず中断される。「カタルシスへ」という単純な道筋を拒否する。中断によって生まれるその間隙は、たえず思考することを促す。
同時期、スタニスラフスキーの一番弟子メイエルホリドも、日本の古典劇、能や歌舞伎を参考にしながら「ビオメハニカ」というメソッドを開拓していた。これもまた中断である。
そして、メイエルホリドの弟子にあたる映画監督のエイゼンシュタインもまた、モンタージュという手法を生みだす。まさに中断である。
2001年の9.11事件以降、ショック、思考停止、そして麻痺状態という世界の状況のなかで、単純化されたカタルシスのドラマツルギーだけが世界を支配しようとしている。それは、他の思考の道を閉ざすファシズムの種を内包している。「エンターテイメント」と称しながら。主役は、めくるめく暴力的なスピードと排他性の象徴「家族」となる。
すでに思考する人間を葬り去ろうとする時代は訪れているのかもしれない。皮肉にも、そうなったとき演劇の有効性が最も発揮される。故に、過去の独裁者は演劇人をまず抹殺したのではあったが。
posted by NIHEI at 14:01| Comment(0) | TrackBack(0) | #0011〜#0020 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月16日

#0018

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「《距離とは光である、境界は存在しないとこれからもおまえが見なす限り。かくして、われわれは隔たりとなる。》 レブ・ミルシャーク」
(エドモン・ジャベス『問いの書』)
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2006年11月10日

#0017

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リアリズムとは、喜劇のメソッドのことである。
したがって、20世紀の演技のリアリズムを決定づけたスタニスラフスキー・システムは、喜劇の代表的なメソッドといえる。
通常の社会は、散文の世界であるから、リアリズムとしての喜劇は、散文化せざるを得ない。
現代は、散文としての喜劇しか存在しない。
真の意味での悲劇は、現代では存在し得ない。
ただ、詩の世界においてのみ、その可能性が残されている。
あるいは、童話の世界に。
社会という視線ではとらえきれない、宇宙までのまなざしを勝ち得たものを悲劇という。
そして、それをリアリズムとはよばない。
祝祭的時空間を、リアリズムでは表現できない。
詩的なものとは、宇宙規模の時空間であり、それを悲劇とよぶ。
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2006年11月09日

#0016

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「他の連中は作品を差出すというがいい、私はここに私の精神以外のなにものをも示す気はない」 
(アントナン・アルトー『冥府の臍』)
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2006年11月07日

#0015

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演劇とは、不純である。
演劇は、不純物の集積である。
不純をつくりだしているのは、[現在]という時の概念である。
この[現在]という不純物が、演劇を成立させている。
[現在]という不純物なしの演劇は成立しない。
演劇は、世界の[現在]という不純物で成立している。
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2006年11月06日

#0014

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そこは、地獄の永遠性と同じ絶望的な時間があるところ。
そこは、純粋な空間であり、驚異的なインスピレーションに満ち、先に進むことも後戻りすることも不可能な……
posted by NIHEI at 10:06| Comment(0) | TrackBack(0) | #0011〜#0020 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月04日

#0013

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境界とは、距離のことである。
距離とは、ひとつの時空間である。
その時空間の質で、その境界の機能は決定される。
境界とは、ひとつの演劇空間である。
日常から逸脱した時空間であるが故に、境界をはさんだ両世界の日常の集積として象徴される。
posted by NIHEI at 13:44| Comment(0) | TrackBack(0) | #0011〜#0020 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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